更新が1年位滞ってしまった。何という理由はなく、ただの怠惰と言えばそれまで。とは言え、連休の最終日となれば何もやっていない焦りからか、何かを残そうとこの文章を書き始めた。
2026年5月号の『ユリイカ』(青土社)の特集は魚喃キリコ。魚喃キリコの『bule』を「好きな漫画だから読んでみて」と、とある人から借りたことを思い出した。好きなものを語られることは、その人の重要な部分を知り得てしまう悦びと、知ってしまうことの恐れを同時に感じ、やや後退りしたことを憶えている。貸してくれた人は、魚喃キリコの漫画に出てくるような人だったことを、漫画を読む度に思い出してしまう。
多少感傷に浸ってしまったが、前出の『ユリイカ』をぱらぱら読みながら、高野文子の名を目に留めた。2002年7月号の『ユリイカ』の特集は高野文子。ここに魚喃キリコとのおともだち対談「女子にとっての〈〈まんが道〉〉」が載っている。ここには、創作していく上で、はっとさせられるような発言が散見される。全文読まねば、流れを摑み損ねる可能性が高いが、少し抜き書きしたい。
魚喃が、本が売れて自分の本が古本屋に置かれることより、少量しか売れなくても人の本棚に残っている方がいい、古本屋にあると使い捨てみたいな感じがすると言う。その流れで下記のやり取りがある。
魚喃:以前、高野さんが日記を捨てたっていう話を聞いてびっくりしました
(笑)。
高野:捨てました、こないだ。私は自分の漫画はあぶくのようなものだと思ってい
るのね。失敗して駄作になってしまった時は、描かなかったことにすればいいやと
いう最後の切り札があるんだよ。そのためには、自分が描いたものをいつでもなか
ったことにできる状態にしておかないといけないわけね。捨てちゃえば「え、漫
画? そんなの私描いてません」と言えるじゃないのさ(笑)。ジェラルミン・ケー
スに取っておくなんて考えたこともないな。日記だってヤだよ(笑)。
魚喃:そうかー。いま新たな風が私の人生に吹き込みましたよ(笑)。
高野:漫画なんてあぶくだよ。
高野のあっけらかんとした発言にくすくす笑いながら読んだ。凄まじいものを描いているという意識もなく、凄まじいものを描いている飄々とした感じが表われた発言である。評価を、承認を、得ようと創作している人が多い現在において、この「あぶく」と言える人の存在は、新たな風を吹かせる。
そうして対談は続き、それぞれ今後の創作への思いに話が及ぶ。対談の最後は、高野の下記の発言で締められる。
高野:まぁ、失敗するかもしれないけれど、たまには違うことがやってみたい。得
意技ばかりやっているのも馬鹿みたいじゃない(笑)。最後はやっぱり得意技に戻
るとしてもね。
これは、箴言だと思う。得意技で駆け抜けていく人生(創作)もいい。ただ、弱く、脆く、心許無い技を用いながら、そこに面白さを見つけていく方が愉しそうだ。「その人らしさ」とは、誉め言葉でもあるが、慣れに染まってしまったことへの指弾なのかもしれない。あれこれ作風を変化させながら、それでも芯として残り続けるものがその人の本当の「作風(らしさ)」と言うのだろう。