浮世の微睡み

髙田暁啓(1996年生)/「八雁短歌会」所属(2019年~)/八雁創刊十周年記念企画特別賞 第Ⅲ部八雁37号(2018年1月)~第60号(2021年11月)

高野文子×魚喃キリコ

 更新が1年位滞ってしまった。何という理由はなく、ただの怠惰と言えばそれまで。とは言え、連休の最終日となれば何もやっていない焦りからか、何かを残そうとこの文章を書き始めた。

 2026年5月号の『ユリイカ』(青土社)の特集は魚喃キリコ。魚喃キリコの『bule』を「好きな漫画だから読んでみて」と、とある人から借りたことを思い出した。好きなものを語られることは、その人の重要な部分を知り得てしまう悦びと、知ってしまうことの恐れを同時に感じ、やや後退りしたことを憶えている。貸してくれた人は、魚喃キリコの漫画に出てくるような人だったことを、漫画を読む度に思い出してしまう。

 多少感傷に浸ってしまったが、前出の『ユリイカ』をぱらぱら読みながら、高野文子の名を目に留めた。2002年7月号の『ユリイカ』の特集は高野文子。ここに魚喃キリコとのおともだち対談「女子にとっての〈〈まんが道〉〉」が載っている。ここには、創作していく上で、はっとさせられるような発言が散見される。全文読まねば、流れを摑み損ねる可能性が高いが、少し抜き書きしたい。

 魚喃が、本が売れて自分の本が古本屋に置かれることより、少量しか売れなくても人の本棚に残っている方がいい、古本屋にあると使い捨てみたいな感じがすると言う。その流れで下記のやり取りがある。

 

  魚喃:以前、高野さんが日記を捨てたっていう話を聞いてびっくりしました

  (笑)。

  高野:捨てました、こないだ。私は自分の漫画はあぶくのようなものだと思ってい

  るのね。失敗して駄作になってしまった時は、描かなかったことにすればいいやと

  いう最後の切り札があるんだよ。そのためには、自分が描いたものをいつでもなか

  ったことにできる状態にしておかないといけないわけね。捨てちゃえば「え、漫

  画? そんなの私描いてません」と言えるじゃないのさ(笑)。ジェラルミン・ケー

  スに取っておくなんて考えたこともないな。日記だってヤだよ(笑)。

  魚喃:そうかー。いま新たな風が私の人生に吹き込みましたよ(笑)。

  高野:漫画なんてあぶくだよ。

 

 高野のあっけらかんとした発言にくすくす笑いながら読んだ。凄まじいものを描いているという意識もなく、凄まじいものを描いている飄々とした感じが表われた発言である。評価を、承認を、得ようと創作している人が多い現在において、この「あぶく」と言える人の存在は、新たな風を吹かせる。

 

 そうして対談は続き、それぞれ今後の創作への思いに話が及ぶ。対談の最後は、高野の下記の発言で締められる。

 

  高野:まぁ、失敗するかもしれないけれど、たまには違うことがやってみたい。得

  意技ばかりやっているのも馬鹿みたいじゃない(笑)。最後はやっぱり得意技に戻

  るとしてもね。

 

 これは、箴言だと思う。得意技で駆け抜けていく人生(創作)もいい。ただ、弱く、脆く、心許無い技を用いながら、そこに面白さを見つけていく方が愉しそうだ。「その人らしさ」とは、誉め言葉でもあるが、慣れに染まってしまったことへの指弾なのかもしれない。あれこれ作風を変化させながら、それでも芯として残り続けるものがその人の本当の「作風(らしさ)」と言うのだろう。

「水が呼ぶ月 月が呼ぶ野」 築地正子『鷺の書』(一首評#2)

  水が呼ぶ月あり月が呼ぶ野がありてわが血の中に醒めゆく弥生人

築地正子『鷺の書』

 

  大胆な歌である。文体の上でも、韻律の上でも、時間的な過去への遡りも、そしてこの歌から導かれる景の上でも。何故か、この歌から目を離すことができないでいる。

 築地正子(1920年~2006年)は「孤高の歌人」として知られる。26歳~82歳まで熊本県玉名市に住んでいたことで、同じ九州で暮らす私にとっては何某かの親近感を覚える歌人である。端正な調べと響き、文語の重みと軽みの使い分けの妙、自然を「われ」を詠い、歌の立ち姿のしなやかさに魅力を感じている。

 上句は句跨りで字余り、結句も字余りだ。ここには、短歌の定型を逸脱しても託したいイメージが表現されている。特に三句目と結句が引き延ばされるように読むことになる。ここに言葉が意味を超えて、何か不思議な力を宿していると感じる。

 「水が呼ぶ月」、そしてその「月が呼ぶ野」とは何だろうか。ここの「水」は湖のようなものを思い浮かべた。その「水」が「月」を呼び、呼ばれた「月」は「野」を呼び、そこに呼ばれた「野」が立ち現れる。何だか不思議な空間が歌の中で生み出されている。

 もしくは、呼ぶというのは、「われ」が「水」や「月」が呼ぶ声を聴き取っていると読む方がいいだろうか。野に居て、周辺の音に静かに耳を傾ける。そこから更に神経を尖らせて、耳を澄ませる。そこには、「水」が「月」を呼ぶ声があり、「月」が「野」を呼ぶ声があることを聴き取る。

 後者の読みの方が正確かもしれないが、前者の読みも捨てがたい。

 その「野」にいる「われ」は、自らの血の中に醒めてゆく「弥生人」の存在を感じているのである。「弥生人」は、もともとシベリアに住んでいた集団で、約6000年前から東アジアに広がり、約3000年前に朝鮮半島を経由して渡来し、日本に水田稲作や金属器をもたらしたと言われている。血が騒ぐという文字通り、わが血に弥生人の存在を感じているのだ。

 感覚を研ぎ澄まして、自然の中に身を晒す。そこには、今まで見えていなかった景色が、聞こえなかった音や声が、匂わなかった香りが、ふと見えて・聞こえて・香ってくるのかもしれない。そこには、「われ」の中に古代の人たちの存在が息づくことを知るきっかけとなり、過去(古代)と繋がる回路を生み出すことに繫がるのだろう。

「偶然の空間」 稲葉京子『槐の傘』(一首評#1)

  人である樹であることの偶然の空間に降る葩の雨

稲葉京子『槐の傘』

 

 短歌を読むのが億劫になっている。詠むことも。翻って、俳句を読むのは愉しい。結社に入って、短歌をつくっているものからしたら、かなり重症である。心はとっくに短歌から離れているが、それでも歌を続けていきたいという気持ちは残っている。

 このまま何もしないと心は枯れていく一方だろう。とくに有名でもなんでもないので、短歌関係の出版社から依頼が来ることもないし、こちらからアピールする気などそもそもない。だから、ブログでもいいから書く場を自ら作らないと、と思っている。書く場所があれば、何かを読もうという気になるし、読めば何かを考える。その流れを絶やさないようにすれば、歌作にも活きてくるだろうという姑息な魂胆を拭いきれないが、純粋に身の底に溜まってうずうずした言葉を素直に吐き出したいと思う。何の見栄も気取りも必要ない場所で。

 私が好きな歌人を訊かれたら稲葉京子の名前を挙げる。まずは、その稲葉京子の歌から一首ずつ取り上げていく。要らない話をだらだらと続けてしまったが、掲出歌の話に移ろう。

 掲出歌は、稲葉京子第三歌集『槐の傘』の一首。人口に膾炙している「来る年の桜花をここに見得るやと樹に問ふ父よげに桜人」で始まる一連「桜人」の中にある歌。掲出歌は、ことあるごとに口遊み、好きな歌を紹介する場面ではこの歌を挙げている。

 文体の特徴を挙げれば、「~である~である」の散文的な(通常文末に付ける)語と「の」を多用し、初句から切れなく結句までもってくるところにある。切れなくすっと下に降りていく文体は、結句の「葩の雨」が降る姿と重なってくる。初句・二句と、「人」、「樹」、と読んで、「人」と「樹」が並立している場面を思い浮かべる。この「樹」は、連作の題や前後の歌から推測して桜だろう。人であることも「偶然」で、樹であることも「偶然」。そして、その「偶然」にこの世にある存在が互いに同じ空間にいることも「偶然」なのだ。この「偶然の空間」に降る花びらも勿論。

 この歌には、この世に生を享けた存在としての「偶然」と、同じ場にいるという「偶然」の巡り合わせが詠み込まれている。これは偶然が重なり合った末に現れた象徴的な空間と言っていいだろう。

 ただそこに存在としてあり、いるというのが、不思議で愛おしむべきものなのだと説得させられる。あまたある偶然の瞬間から、象徴的な場面を切り取り、繊細な感覚と流麗な響きを奏でるのが稲葉の歌の特徴の一つと感じる。稲葉京子の世界が如実に表れた歌である。

 われわれは、その場その場の偶然性に身を任せるしかない。何かを選んでいるようで、既にある選択肢から選ばされているのだ。もしくは、選んだ気になって、運命は自らの手にあると思いたいのだ。ただ、どうだろう。この世は思いもよらない出会いや出来事があり、そもそも生まれてきたことも死んでいくことも、私たちの意思の外にあるといえる。偶然の産物の積み重ねが「いま」と言い換えてもよいだろう。その偶然の瞬間の一瞬一瞬を切り取り、五七五七七の韻律に乗せて訴えるのが歌なのではないかという感興に至る。私の思いや主張をあれこれ言うのではなく、難しい言葉で読者を困惑させるのでもなく。

 効率に競争、たいしてつまらない人間関係に穢されていく日々。何かが壊れ、視界不良で、気が付けば必要ないものを両手に抱え生きる日々。どうしようもない中を生きてはいるが、この歌を読む度に日常のあらゆるところにある「偶然の空間」を大切にしながら、日々を送りたいと、切に思うのである。

西川火尖『サーチライト』(句集#2)

 

  はじまりの違ふ花ざかりの交差

西川火尖『サーチライト』

 

 この句集の最後を飾る一句。読んだ瞬間にいい句だと感じて、ことあるごとに思い出している。季語は「花ざかり」で、桜の花の盛り、またその季節のこと。二句目から三句目は句跨りで、ストレートには読めないところもこの句の魅力だ。「花ざかり」を桜のこととして読むのもいいが、ここは2人の人間の姿を浮かべて読みたい。生まれた時が異なるもの同士が、桜の花の盛りのように、人生の最も盛りの時期に交わる。その鮮やかな出会いは、桜の花の咲く春。はじまりの異なるもの同士の交差を桜の花が寿いでいるようだ。

 作者の西川火尖は1984年生まれ。略歴によると、第2回龍谷大学青春俳句大賞入選をきっかけに俳句に興味をもったという。2006年「炎環」入会。第11回北斗賞受賞。鬱屈したものが句から立ち現れていて、くぐもった暗い声が幾度と聞こえてきた。

 

  未来明るし未来明るし葱洗ふ

 

 人は嘘をつくとき、同じことを二度繰り返すという。決して未来は明るくないのだ。だからこそ、「未来明るし未来明るし」と呪文のように唱える。葱の強い匂いが、鼻につんと香る。

 

  暖房車不可避の朝を走りけり

  鶏頭花すぐに答が出て迷ふ

  秋の蝶下敷きは傷だらけかな

 

 一句目、「不可避の朝」という把握が秀逸。来なくてもいい朝も来る。二句目、少し考えたら答えが出てしまった。この答えでいいのか、と迷う。「鶏頭花」は脳みその形に似ていると言われる。鶏頭花を迷っている脳みそと錯覚する。取り合わせが魅力。三句目、秋に見つけた蝶。その弱弱しい様子と下敷きの傷。取り合わせの妙。

 

  春の宵大きな月を心配す

  野遊びの天才が騙されてゐる

  芒にはならぬと何度言はせるか

 

 題材が楽しい句を三句。一句目は発想がいい。あまりにも大きく見える月を心配する。これは月を心配していると読むのが正確だが、その大きく見えてしまっている私の視覚や心を心配しているようにも思える。二句目、「野遊びの天才」とはどんな奴なのか。その天才は、何からどう騙されているのか、何もわからないが読んでいてわくわくしてくる句だ。三句目、次に生まれ変わるなら何になりたいか、と大きな存在(それを神様と言うのかもしれなが)問われている場面。何度も芒にはならないと伝えても、芒になりたいと思われているようだ。何度言っても理解されない苦しさや寂しさを、物語の中に滲ませる。

 

  ろろろろと春満月へ向かふバス

  蕨餅食へよ泣きながら食ふなよ

  夕立に次ぐ夕立に次ぐ夕立

 

 文体の工夫があからさまに見える句をあげた。一句目の「ろろろろ」のオノマトペ。二句目の二つの命令(呼びかけ)。三句目の「夕立」の三連続。こういう冒険は楽しい。

 

  余りたる電気を空蟬に流す

  伝言を偽る遊び鳳仙花

 

 生きていく上で、遊びの心は大事だ。深刻になっても、どこかで遊びの心があれば、何とかなる。人間を「ホモ・ルーデンス」というように。

 一句目は三橋鷹女の「ひるがほに電流かよひゐはせぬか」を遠くに感じながら読む。余った電流を空蟬に流すという遊び。二句目は、伝言を偽るという遊び。この遊び心が現れた句に魅力を感じた句集であった。

 

第1句集 2021年12月28日刊行

土井探花『地球酔』(句集#1)

 

  どうでもよいひととけつこうよい花火

土井探花『地球酔』

 

 自分にとってどうでもよい人と行く花火。その花火は思いのほか結構よい花火であった。特別な人ではないからこそ自意識が過剰になることもなく、自然体でいられたのではないだろうか。「どうでもよい」から「けつこうよい」という言葉の繋げ方にユニークさがある。花火という夏の一大イベントに昂ぶることなく冷静に分析しているところも面白い句だ。

 作者の土井探花は1976年生まれ。2010年頃句作を開始したという。第40回兜太現代俳句新人賞を受賞している。口語で俳句をつくっていて、リズムの良さや工夫された表現に魅かれる句が多くあった。

 

  美形のパンジー見つけるまで無職

  三脚を雪に刺し雪撮つてゐる

  環境にやさしくかなぶんを投げよ

  無実だがきのこをよけて通ります

 

 一句目は、美形のパンジーを「働きたい職場」の比喩として読んだ。いい職場を見つけるまでは無職でいるのだという強い意志を感じる。ただ、比喩として読まなくてもいいかもしれない。美形のパンジーを見つけるまでは無職でいるという決意。美形のパンジーを見つけることで、何かのスイッチが入るのかもしれない。二句目。雪を撮るために雪に三脚を刺すという面白い場面を捉えた。「雪に刺し雪」という二句目を早口に読んでしまうように仕掛けてある。このリズムがこの一句のおかしみをもたらしていると感じる。三句目、四句目は不思議な句だ。なぜかなぶんを環境に優しく投げる必要があるのか。きのこをよけて通る理由は何なのか。読者はあれこれと想像し、この小さな小さな物語を思いのままひろげていけばよい。

 

  水中花ふと性別をその他とする

  鳶の影踏めたら死ねる春だらう

  背泳ぎの空は壊れてゐる未来

  枯蔓の頑な負けるのがベター

  天高く比べることに飽きました

  愛の無い部屋で落花を待つてゐて

 

 作者の鬱屈した心情が垣間見える句を並べてみた。上記の句には特に心魅かれた。日常の様々な出来事を掬い上げながらそこに心情が乗っかってくる。一句目は性別欄を埋めようとしている瞬間。「水中花」はコップなどの水を入れたガラス器の中で開かせる造花のこと。造りものの「水中花」と生まれた瞬間から決まってしまっていた「性別」との取り合わせが面白い。二句目。鳶は普段は高いところ飛んでいる。そんな鳶も稀に低いところまで降りてきて、地上に影をつくることもあるだろう。そんな瞬間に巡り合わせて、鳶の影を踏めば死ねるかもしれないと夢想する。春の爽やかさを一蹴するような死への欲求を感じ取る。五句目。見上げても見上げても底が見えない空。上には上がいるのが人間社会。いつまでも上を見て自分と比べてしまうのだが、そんな比べることにも飽きたという心理。

 

  春愁の痛いくらゐが正常値

 

 沢山の痛みを知ってしまうことで、それが正常となってしまう恐ろしさ。この世界で生きていくには、その正常値に無自覚にならないことが大切だ。作者の句からは無邪気なまでの明るさと暗さが同居している。この句はその象徴と言える。

 

第1句集 2023年11月7日刊行